歌人・長塚節、没後110年 晩年の闘病中に贈られた励ましの短歌
正岡子規の弟子として知られる茨城県常総市出身の歌人で、8日に没後110年を迎えた長塚節(たかし)(1879~1915)。35歳の若さで亡くなるまでの闘病中に、同年代の歌人から贈られたとされる短歌が見つかった。入手した日本近代文学研究家の渡辺保幸さん(72)=阿見町=は「節の晩年の様子を伝える貴重な資料だ」と評している。
1911(明治44)年、32歳だった節は、結城郡山川村山王(現在の結城市)の医師の娘・黒田てる子と婚約したが、後に喉頭(こうとう)結核が判明。結核は当時、「不治の病」とされていたため、節は断腸の思いで婚約を破棄したという。
渡辺さんによると、てる子は3年後の14(大正3)年5月上旬に3回、節の入院先を見舞いに訪れた記録がある。見つかった短歌は、その直後に、子規の流れをくむ短歌誌「アララギ」同人で親交のあった歌人・島木赤彦(1876~1926)から贈られたものだという。
短歌は5首。掛け軸に仕立てられ、「大正三年五月十七日夜 赤彦生」と記されている。その一首「いたつきの やまひのなやみ 十方の明り 照りとほり 晴るゝと信ず」には、病気の快癒への願いがしたためられる。
節はその後、赤彦に付き添われて退院したが、旅先の九州で病状が悪化。翌15年2月8日に帰らぬ人となった。短歌を贈った赤彦の思いについて、渡辺さんは「てる子を愛しながらも、病気で婚約破棄せざるをえなかった節の相談に乗り、励まそうとしていたのではないか」と推測する。
短歌は昨年2月、渡辺さんが知り合いの古書業者から入手した。高校の国語教員を経て大学で日本文化の講師をしている渡辺さんは、若い頃から夏目漱石や森鷗外ら文豪に関する資料を集め、時には親族を取材し、生涯を追っている。
コロナ禍の時期には明治時代の文豪と感染症の関わりを主題にした冊子「明治作家と感染症」を自費出版した。渡辺さんは「作家の知られざる人物像を調べ、書いていきたい」と話す。
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〈長塚節〉 岡田郡国生村(現在の常総市)生まれの歌人・作家。茨城県尋常中(現在の水戸一高)に進学したが、体調が優れず退学した。その後、正岡子規の弟子として活躍。歌人として多くの作品を残しつつ、写生文、小説にも活動の幅を広げた。地元の貧しい農民の暮らしぶりを描いた代表作「土」は1910年、東京朝日新聞で連載された。
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