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国際的な水銀規制のルールを定めた水俣条約が発効しました。戦後の経済成長を牽引した企業が起こした「水俣病」ってどんな病気?どうして起きたの?そんな疑問にお答えします。
2021年に公開された映画「MINAMATA―ミナマタ―」などでも再び注目されている公害病、「水俣病」の発生原因や現状などを、イラストや写真、図表をもまじえて分かりやすく伝えます。[特集はこちら]
かつてチッソの工場から水俣湾に流された水銀は埋め立てられ、その地は公園になり、不知火海が見渡せる場所に慰霊の碑が建つ。患者が多発した漁村では人々が静かに暮らしている。[続きを読む]
皆さんのおじいさんやおばあさんがまだ子どもだった1956年5月、熊本県
産まれる前にお母さんが食べた魚が水銀で汚れていて、赤ちゃんの時から水俣病だった患者もいます。
1968年8月ごろのチッソ水俣工場
当時は「高度経済成長期」と呼ばれ、会社が物をたくさんつくり、人々が買えるようになった時代でした。政府は経済が大きくなるよう努力しましたが、一方で自然環境(かんきょう)を守ることは後回しになり、汚れた水や煙(けむり)が人々の健康を損なう「公害」が相次ぎました。水俣病は原因がわかった後も9年間、工場が汚れた水を流し、政府も止めずに被害が広がりました。「公害の原点」と言われています。
1965年には阿賀野(あがの)川が流れる新潟県で新潟水俣病が起きました。四日市(よっかいち)ぜんそく(三重県)、イタイイタイ病(富山県)とあわせて「四大公害病」といいます。
患者認定を求める裁判もある。溝口秋生さんは亡くなった母親溝口チエさんの認定を最高裁で勝ち取った=2013年4月16日
チッソが、病院に通う費用や償(つぐな)いのお金(補償金(ほしょうきん))を払(はら)っています。患者は2282人いて、2017年9月までに約1900人が亡くなりました。政府が定めた症状などの基準に合うと患者と認められます(認定)。
一方で、症状があっても認められない人たちが被害を訴(うった)え、いくつも裁判を起こしました。判決や話し合いなどで一定のお金を受け取ることになった人は約7万人いて、今も裁判を続けている人もいます。
水俣病の患者や家族は、人にうつると誤解されたり、補償金をうらやましがられたりして、いじめや差別を受けました。
有刺鉄線で囲まれたチッソ水俣工場=1973年、熊本県水俣市
今も熊本県水俣市にあり、多くの人が働いています。テレビやスマートフォンなどの画面に必要な材料をつくっています。
チッソは、第2次世界大戦まで財閥(ざいばつ)と呼ばれる会社の集まりの中心でしたが、水俣病を起こした後、患者への補償が増えて倒産(とうさん)寸前になりました。政府や銀行がお金を貸すなどして助けています。
2011年には法律で、工場を続けるため子会社がつくられました。補償も続けるとチッソは説明しています。法律ではチッソ自体をなくすこともできるため、患者は責任を果たすように求めています。
水俣湾で取った魚の水銀値調査=熊本県水俣市
工場の水が直接流された水俣湾の底にはメチル水銀がたまりました。魚の汚れと被害を食い止めるため、熊本県は濃い水銀を含む泥をすくい集め、特に汚れのひどい湾の一部は埋め立てました。工事は1990年に終わり、97年に「安全宣言」を出しました。いま、埋め立て地は公園になっています。地震などで崩れないように県が監視を続けています。
県は毎年、水俣湾の魚の水銀の量をはかっていて、国が一時的に定めた基準(暫定的規制値)はほぼ下回っています。シラスやタチウオは水俣の名物です。
水俣市ではごみの分別収集が続いている=2002年9月
世界では金をとる作業や工場などで水銀が使われています。水銀によって自然環境が汚され、人が健康を損なわないために決めた、国同士のルールが8月16日に始まります。水俣病のような出来事を繰り返さないという思いを込め「水俣条約」と名付けられました。
水俣市では、なるべく化学製品を使わず、環境を汚さないものづくりが盛んになりました。市民はごみを種類によって細かく分け、再利用を進めています。
水俣病が確認されて60年あまり。今も被害の補償や埋め立て地の管理など課題が残されています。様々な教訓があるといえます。
水俣病が確認されてから60年あまりがたちました。海辺に住む幼い子どもたちが同じような症状で病院にかかり、「原因不明の病気」として1956年5月1日、保健所に届けられたのがきっかけです。その一人、田中実子さんは今も水俣市で暮らしています。部屋の中で、話すことも、一人で食べることもできず、24時間の介護を受けています。[続きを読む]
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