戦後70年

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第1章1931年~1940年

 東アジアの国際環境は、19世紀にヨーロッパの列強が本格的に進出してきたことによって激変した。開国から間もない日本は、植民地化を免れようとする中で、自らも列強にならってアジアへの侵略や植民地支配への道を歩み始めた。満州事変から日中戦争と、勢力圏を拡大し続けた日本は、1940年には日独伊三国同盟を結び、翌41年には、ついに米英などを相手に太平洋戦争に突入する。

       1940年当時の日本の領土と植民地など

1931年満州事変

 1931(昭和6)年9月18日、奉天(現瀋陽)駅郊外の柳条湖付近の線路で起きた爆発をきっかけとする日本の侵略戦争。爆弾を仕掛けたのは関東軍別ウインドウで開きますの中堅参謀らだったが、中国側の仕業と主張し、攻撃を開始。45年の敗戦にいたるまでの足かけ15年にも及ぶ戦争の発端となった。日本政府は当初、不拡大方針を決めたが、力を強めた関東軍はこれを無視し、32年3月に「満州国別ウインドウで開きます」建国が宣言された。国際連盟別ウインドウで開きますはリットン調査団を送り、その報告書を受けて、満州国承認の取り消しなどを日本に勧告した。反発した日本は33年3月、連盟からの脱退を通告した。

※地図の状態は当時

【動画】1/5

提供:テレビ朝日映像

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満州事変(城壁から銃撃)

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柳条湖付近の満鉄線路を調べる国際連盟調査委員会のリットン委員長

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1933(昭和8)年2月24日午後の国際連盟臨時総会で、連盟に対して決別の声明をする松岡全権

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1933年4月27日、国際連盟を脱退して横浜港に帰国し、浅間丸の甲板上で歓呼に応える松岡洋右首席全権

1936年2月26日2・26事件

 1936(昭和11)年2月26日に起きた陸軍皇道派別ウインドウで開きます青年将校によるクーデター未遂。軍主導による国内改革を目指し、約1400人の部隊が動員され、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせたほか、首相官邸や国会、陸軍省など一帯を占拠した。だが、昭和天皇が激怒し、鎮圧へ向かった。首謀者が死刑になったほか、皇道派関係者も処分された。事件を機に岡田内閣が倒れた。軍部は事件の威圧効果を利用して政治的発言力を強め、戦争体制へ突き進んだ。

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2・26事件(料亭「幸楽」にたてこもった反乱軍の兵士たち)

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2・26事件(国会周辺を警戒する陸軍の戦車隊と兵隊)

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2・26事件(高橋是清蔵相の棺)

1937年日中戦争

 1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋別ウインドウで開きます事件を契機として始まった中国との戦争。北京郊外の盧溝橋付近で、日本軍が夜間演習を終えたころ、数発の射撃音が聞こえた。たまたま兵士1人が不在(実は用便中)だったため、部隊が出動。兵士はすぐに発見されたが、翌日、中国軍を攻撃し、制圧した。その後も攻撃を重ね、北京と天津を占領。8月には上海でも戦闘が始まり、全面戦争に突入した。国民党と共産党が再び手を結んで抗戦し、各地で激しい戦争が繰り広げられた。

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北平(北京)郊外の盧溝橋で、夜間演習中の日本軍と警備の中国軍が衝突。日本軍は盧溝橋を完全に占拠した。盧溝橋の碑の前で万歳する日本軍=1937年7月8日

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日中戦争(天津偕行社に日本軍司令官を訪ねて陳謝を表明し、帰途につく「冀察政務委員会別ウインドウで開きます」の宋哲元(中央)と張自忠(その右後ろ)=1937年7月18日)

1940年9月27日日独伊三国同盟

 1940(昭和15)年9月27日にドイツのベルリンで調印された日本・ドイツ・イタリアの3国間による軍事同盟条約。欧州とアジアにおいて「世界新秩序」づくりをめざす3国が、第三国からの攻撃に対して援助しあうことなどを盛り込んだ。結果的に米国の強い反発を招いた。37年の日独伊防共協定の強化をドイツが打診したことがきっかけ。それに呼応した陸軍と、外務省・海軍が対立し、議論が続いたが、40年当時、ドイツが欧州戦線で勝利を収めていたことを背景に成立にいたった。これらの結果、日米関係は急速に悪化し、太平洋戦争の勃発につながった。

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日独伊三国同盟(成立を祝う様子)

【動画】2/2

提供:テレビ朝日映像

盧溝橋事件から2周年記念当日の天津。反英トラック大行進=1939年7月7日

第2章に続く

盧溝橋事件から2周年記念当日の天津。反英トラック大行進=1939年7月7日

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