生きづらさを考える

「ひきこもりUX会議」代表が語る④「ひきこもる」のは、「生きるための行為」

2025.03.27

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林恭子
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メンバー全員が、不登校、ひきこもり、発達障がい、性的マイノリティ当事者・経験者の「ひきこもりUX会議」の代表である林恭子さんに、ご自身のひきこもり体験や、団体のあゆみ、今後の課題について綴っていただきました。「UX会議」の由来は、生きづらさや葛藤、居場所のなさ、また様々な支援、そのすべてがUnique experience (ユニーク・エクスペリエンス=ユーザー体験、固有の体験)だととらえる点にあります。4回連載の最終回です。(写真は対話交流会の様子)

何よりもまず、本人の話を聞いて

不登校への支援が始まってすでに40年弱、ひきこもりについても30年弱が経過しています。文部科学省は2016年に「不登校を問題行動と判断してはならない」との見解を含む通知を出しており、厚生労働省は19年に厚生労働大臣(当時)の言葉として「より相談しやすい体制を整備するとともに、安心して過ごせる場所や自らの役割を感じられる機会をつくるため に、ひきこもりの状態にある方やそのご家族の声も聞きながら施策を進めてい きます」と発表しています。

ですが現在でも、無理にでも学校へ行かせるべき、働かせるべきという考えは根強く残っており、傷つけられる経験を重ねたり、頑張り過ぎてこれ以上頑張れない、動けない状態になっているにも関わらず、不登校やひきこもりは「甘え」や「怠け」と捉えられたりする傾向にあります。

私は就労や自立が「ゴール」だとは考えていませんが、就労や自立を否定しているわけでもありません。誰よりも、働きたい、自立したいと思っているのは本人だからです。ですが、それが目的になってしまうと、そもそも生きていること自体がつらいと思っている当事者には、かけ離れた支援になってしまうと思っています。

「ひきこもる」という行為は、「生きるための行為」だと私は思っています。または「命を守るため」の行為です。「死にたい」「消えたい」と思うほどに追い詰められている人に、一日も早く学校に行ってほしい、一刻も早く働くべきと迫ることがどれほど残酷なことか。まずは生きていていいと思え、その存在を肯定され、安心できる人や場との出会いが必要ではないでしょうか。

不登校もひきこもりも、当事者が見ている”世界”や”風景”と、家族や支援者が見ているそれとではかなりの乖離(かいり)があると感じています。私はひきこもっていた当時「誰とも日本語が通じない」と思っていました。同じ言語を使っているはずなのに、意味が通じない、話がまったく噛み合わないのです。

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