東京の台所2
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念願の仕事、念願の台所でジレンマを抱く日々〈314〉

〈住人プロフィール〉
26歳(会社員・女性)
賃貸マンション・2LDK・都営三田線 板橋区役所前駅・板橋区
入居2年・築年数11年・夫(弁護士・29歳)とのふたり暮らし

 「就活が全然うまくいかなくて、卒業前の半年は、大好きな台所に立つ気持ちにもなれませんでした」
 本人いわく「惨敗の日々」を、振り返る。

 静岡から、一浪を経て入学した関西の国立大学では、食品科学を学んだ。数学が得意で、食べることと料理が好きだったからだ。
 「カレー部」というサークルに入り、念願のひとり暮らしの台所で、思うぞんぶん料理を楽しんだ。
 2年生の頃、『dancyu』というグルメ雑誌を知る。
 「文章が、五感をフル動員して書かれている。雑誌のグルメ記事やテレビの食レポって、よく読むと味の説明がなくて、“〜〜産の○○を使って”というような情報だけのことが多い。でもdancyuは味をていねいに表現していて、いつも感動しました。好きな表現は書き出して保存しました。おしゃれ感よりシズル感を重視した写真も惹(ひ)かれた。食べ物なんだからおしゃれとかよりまずはおいしく見えなきゃだめでしょうという気概を感じましたね」
 もう『dancyu』の編集者しかないと、その版元を第1志望に、出版系を目指すことにした。

 しかし、「好きだから」が通用するほど現実は甘くなく、出版社は軒並み撃沈。友人のほとんどが大学院に進むなか、ひとり編集者にこだわり続けた。

 「疲れ果てて、最後はもう人材派遣会社でいいから落ち着きたいと思ったとき、両親が“就職浪人をしてもいいから、やりたい仕事をしなさい”と。なんとか編集プロダクションに決まったのは3月31日でした」

念願の仕事、念願の台所でジレンマを抱く日々〈314〉

3月31日に内定した会社で、想定外の日々が

 上京して、会社から徒歩数分の新宿区のワンルームマンションを借りた。台所はひとくちコンロで、部屋は5.5畳だ。
 料理雑誌や食関係の広告媒体で、狭いながらもワンルームの台所で、記事のレシピを再現して検証するなど、日常的に料理ができた。
 「下請けになるので、ある程度のブラックな環境は覚悟していました。想像以上に多忙でしたが、料理まわりのことを仕事にできるだけで、楽しくてしかたがなかった」

 ところが1年を過ぎた頃から予算が厳しくなり、料理媒体が次々となくなった。バタバタと人が辞めていき、仕事時間は膨大になるいっぽうだ。

 「仕事は月420時間になり、土日もない。22時23時まで会社で仕事をして、帰宅後も原稿を書く日々が、今も続いています」
 学生時代から付き合っている同大の先輩と同棲(どうせい)を始め、25歳で結婚。
 弁護士の夫は、眺めの良い高層マンションにこだわった。念願の三つ口コンロに、ふたりが立てる広くて明るい台所も手に入れた。家賃は、互いの給料の割合に応じた額を平等に負担している。
 けれども、彼女自身はその台所に立つ間(ま)がない。

 「平日は家でご飯を食べません。朝はコーヒー、昼はコンビニ。夜もコンビニで買って帰り、家でビールを飲みながら23時ころから仕事。土日は、料理の得意な彼が担い、初めて手作りの温かいものを食べているという感じです」

 料理がやりたくてもできない、とも違う。そんな日が続くうちに、「料理をしたい」という願望そのものがなくなった。
 「こんなにもあっさり消え去るのかと、自分でも驚きます。以前はどんなに疲れていても、台所に立っていたのに……」

 夫も、平日は外で済ませてくる。冷蔵庫は、ほぼ酒と調味料だった。
 小学生の頃から、実験クッキングの本や「わかったさんのおかし」シリーズが愛読書だった。やはり食べることが好きな両親のもと、母と台所に立ったり、お菓子を作ったりした。
 中高時代は、丁寧な暮らしを謳(うた)うライフスタイル誌やインテリア雑誌を愛読し、古書店では『暮しの手帖』を買い集めた。
 「『食堂かたつむり』『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』『太陽のパスタ、豆のスープ』。書店に入ると、料理名がタイトルに入った本が、光って見えるんですよね。お小遣いで、ブックオフの端から買い漁(あさ)っていました」

 暮らしを整え、食を楽しむ世界が大好きなのに、現実は、広い台所を手に入れても味噌(みそ)汁ひとつ、作るひまがない。
 「そんな時間が稀(まれ)にできても、ま、いっかと思ってしまう。このまま、料理や丁寧な暮らしへの興味も消えてなくなってしまうのかなと、漠然とした怖さがあります」

念願の仕事、念願の台所でジレンマを抱く日々〈314〉

興味が消えていく恐怖

 夫は趣味が多く、マイペースな人だ。リビングにはレコード、古本、鉄道模型、台所には料理しながら飲むウイスキーや焼酎が並んでいた。
 「私のものは自分の部屋に置いています。ここの暮らしはまる2年ですが、最初のうちは私が忙しすぎて、ほとんど会話もできませんでした」

 土日も自室にこもり、原稿を書く。彼の料理ができ、呼ばれたらリビングに行く。
 あるとき、夫が言った。
 「俺が料理をしているときくらい、部屋から出てきなよ」
 それから、しぶしぶカウンターの前で仕事をするようになった。

 「やってみると、休日だけでも強制的にそういう時間を作るのはいいことだなと気づきました。そうでもしないと会話をしないまま1週間が終わってしまうので」
 交際時代は一度別れ、今も小さな喧嘩(けんか)をよくする。だが、夫のこんな言葉を覚えている。
 「しゃべりながら作りたいんだよね」
 だから、部屋から出てきて欲しいのだ。

 彼女は、今は「会社に鍛えられている」と信じることにしている。
 「驚くほど給料は低いし、成長できているのかもわからないし苦しいけれど、今はスキルを付けることが先なんじゃないかと。3年間はスキルを覚える期間ととらえて、頑張りたいです」
 その先、編集者として料理や暮らしに関わっていられるために、今、歯をくいしばっている。

 けして劣悪な就業環境は肯定しないが、台所に立てない自分に恐怖とジレンマを抱いている限り、彼女は自分の望む道を外さないような気がした。いつか彼女が作る雑誌の未来の読者にも、そんな人がいるかもしれない。
 「好き」だけで社会はままならなくても、「好き」が育てる時間はきっと自分という土台の肥やしになる。

 流し台の下に20歳のときに漬けた梅酒のガラス瓶があった。「時々味見をすると、まろやかでとってもおいしいんです」。
 40歳のときに飲むのが夢だという。熟成中の梅酒が彼女と重なり、ああここはやはり彼女の台所でもあると思った。

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